
一九七三年の第一次オイルショックの時、私は中学二年生で、高知市にある学生寮で生活をしていました。私の実家は、高知市から海岸線を四十q余り東に行った安芸市という人口約二万人の町で、高知市内の中学校に自宅から通うのは難しかったのです。十二才までしか住まなかった故郷ですが、私は強い思い入れを感じています。二〇一〇年の大河ドラマは「龍馬伝」と決まったそうですが、当時活躍した岩崎弥太郎(三菱財閥の創始者)は安芸市出身です。大相撲で活躍している土佐ノ海と栃煌山の出身地でもあります。安芸市はタイガースタウンと呼ばれていて、一九六五年から阪神タイガースが春季キャンプを行っています。小学生の頃は田淵や江夏が全盛期でした。高知市でキャンプを行っていた阪急ブレーブスとのオープン戦が行われる日には、授業が終わるとすぐに安芸市営球場に全力疾走したのを思い出します。 第一次オイルショックでは、ガソリンの値段が二倍になりました。確か、一リットル九十円ぐらいだったのが百八十五円になったのを覚えています。我が家は初めてのマイカー(トヨタ・パブリカ)の中古車を購入したばかりでした。小学生時代に遊園地のゴーカートが大好きで、中学になると国内で販売されている乗用車の名前、排気量、馬力などを諳んじていた私にはショックでした。当時の憧れは「自動車通勤」でした。ガソリンはあと三十年で無くなると言われていましたので、憧れの実現は不可能と思われました。その頃、「ノストラダムスの大予言」に震えあがり、一九九九年七月で人類は終わりなのかと真剣に考えていました。空から来る「恐怖の大王」はきっと大気汚染だろう思い、人類にとってエネルギー問題の重要性に気づきました。一方、一九七〇年に本格的な商業用原子力発電所の美浜一号機が稼働しており、石油を燃やさなくても電気を作れる技術に期待しました。憧れの自動車通勤を実現するためには、発電所で大事な石油を燃やして欲しくないと考えたからです。岩崎弥太郎の創った三菱に入って原子力発電所を造りたい、という夢を描きました。
紆余曲折の時代
一九七八年の第二次オイルショックの時、私は工学部機械系の大学二年生で東京のアパート暮らしを始めていました。大学受験の時には、原子力なら理学部物理だろうと疑いもなく考え、私立大学の三校に合格しました。ところが、本命の国立大学では第一志望の理学系には入れず、真剣に考えもせず記入していた第二志望の機械系に合格となりました。工学部機械系が一体どんなことを勉強するのか、高知の高校生には全くわからない状態でした。当時の高知県には工学部のある大学が一校もありませんでした。そんな状況なので、私は迷いなく私立への入学を選びました。ところが、一九七七年入学の大学生の場合、国立大学の学費は桁違いに安かったのです。多くの私立は年間八十万円以上必要でしたが、国立は十万円を切っていました。両親には申し訳ないことに、学費のことは全く考えずに大学を選びましたが、この時ばかりは父が真剣に調べたようで、「機械系でも原子力ができる」と言い出したのです。大学案内を見ると、確かにあります。結局、私は機械系に入学することになりました。
大学一年生の授業では、機械工学と工学技術の繋がりについて講義がありました。そこでは、原子力船「むつ」、建設準備が進められていた高速増殖炉「もんじゅ」など、原子力技術の製造に関わるものが多く、たまたま入学願書に記入した第二志望の学科は幸運だったと感じていました。次に考えるのは、機械工学の中でどの分野を専門とするかということになります。やはり短絡的に「エネルギーなら熱力学だろう」と思いましたが、サイクリング部に入って自転車のことばかり考えていた私は、成績も悪く、自分が何に興味を持っているかを理解できないまま三年生になっていました。これではいけないと考え、三年生の夏休みはサイクリング部合宿(キャンピングツアー)を諦めて、現業実習(現在のインターンシップ)に行くことにしました。三菱重工業に就職希望でしたので、実習は日立製作所にしました。就職してからは見られない競合他社を見ておこうと思ったからです。ここでの研究課題は水中で回転するポンプの羽根をストロボで観察するものでした。研究課題とは何の関係もありませんが、キャビテーションという現象が起きて羽根の表面の塗料が次々と剥がれ落ちてゆきました。これを見て、材料の破壊に興味を持ちました。四年生では破壊力学の研究室に入り、原子力発電所に使われている金属材料の疲労き裂に関する研究を始めました。あとは三菱重工業に就職して、原子力部門に配属されれば、少年時代の夢はかなうところまで来ていました。ところが、研究の面白さに負けて、博士課程に進学し、大学教員を目指すことになってしまいました。博士課程では経済的な問題もあり、半年後に退学して岐阜大学の助手になりました。岐阜大学では、原子力とは完全に縁が切れてしまい、十三年半の間、基礎的な実験と研究に明け暮れました。憧れの自動車通勤は達成できました。石油は不思議なことになくなりませんでした。
青山学院で原子力デビュー
二〇〇八年の第三次オイルショックの時、私は青山学院大学の教員となり、日本溶接協会原子力研究委員会の委員になっていました。原子力研究委員会には、電力会社からの委託研究を行う小委員会が設置されています。青山学院大学の助教授就任と同時に、委託研究メンバーの一人として採用されました。本当の意味で原子力に携わることができるようになった第一歩でした。小委員会活動は現在に至るまで順調に継続されています。二〇〇七年の中越沖地震では、世界最大規模の柏崎刈羽原子力発電所が被災しました。東京の電力を賄う重要なプラントで、一刻も早く再起動する必要があります。再起動をするための基準を作り、機器の健全性評価を行うため、日本原子力技術協会に「中越沖地震後の原子力機器の健全性評価委員会」が組織され、疲労・材料試験WG主査を命じられました。現在は、原子力発電所メーカの方々と中立的な立場で一緒に仕事をさせていただいています。少年時代の夢と少し違いますが、やっと原子力の仕事に辿り着いたと考えています。十七年後の定年を迎える頃には、原子力発電で充電した電気自動車で通勤していると思います。